Yamagata? (J/E)
Nornes, Markus
amnornes at umich.edu
Tue Nov 3 13:29:29 EST 2009
The online newsletter Neo-neo, edited by former Ogawa Pro producer Fuseya Hiroo, had a poll about Yamagata. I'll paste it below. Some of the veteran attendees, like publisher/critic Erikawa Ken (who used to edit the fine Osaka film newspaper Eiga Shinbun), echoed Aaron's criticism. Note there are also some links to blogs about the festival, including one that shows what the blogger was eating—no small matter, as tsukemono is amazing in Yamagata, and fall is imoni season, a wonderful potato stew they have for picnics!
I have been meaning to write some thoughts, but am having trouble getting to that spot. I'll write something soon. I hope.
Markus
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┃02┃□neoneo坐 11月前半の上映プログラム
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会場はいずれも神田・小川町のスペースneo(都営新宿線小川町駅B5出口より徒歩1
分。JR御茶ノ水駅聖橋口より徒歩5分)です。詳細と地図はneoneo坐のHPをご覧下さ
い。
http://www.neoneoza.com/
■「知られざる短篇映画を見てみる」上映会 「短篇調査団」
16mm上映 会費500円(作品資料付き/映画は鑑賞無料)
うるし麗し4本立(計123分)
(92)漆の巻…2009年11月11日(水) 20:00~
『輪島塗』
1974年/30分/カラー
制作:日本シネセル/企画:石川県/プロデューサー:佐藤吉彦
脚本・監督:高井達人/撮影:渡部克一
■美しい色つや、触れた時の柔らかな木地の感触、そして重厚堅牢性を持ち味とす
る輪島塗。漆の採取から型はつり師、木地師、塗師、加飾の職人までの工程を追う。
『鎌倉彫』
1980年/21分/カラー
制作:岩波映画製作所/企画:伝統鎌倉彫事業協同組合
プロデューサー:小村静夫/監督・撮影:金山富男/脚本:佐藤圭司
■鎌倉時代より、禅寺と茶道に支えられて後世に伝えられてきた鎌倉彫。木地師、
彫師、そして塗師の技術とともに、その歴史背景と作品を解説する。
『飛翔』
1971年/30分/カラー
制作:戸田プロ/製作・脚本・監督:戸田金作/撮影:玉井正夫
■新しい漆芸の世界を創成した日本芸術員会員・文化功労者、山崎覚太郎の「人と
作品」を記録しながら、絵画とは、芸術とは何かを考える。
『漆器づくりの要具 ―手仕事の世界―』
1980年/42分/カラー
制作:池田プロ 製作・脚本・監督・撮影:池田達郎
■漆器作りには多くの要具を使う。中塗りの後に使う研ぎ炭。漆濾し紙。漆刷毛。
蒔絵筆。その要具づくりの工程を忠実に描いて、貴重な伝統技術の記録とする。
【料金】会費500円(作品資料付き/映画は鑑賞無料)
【お問合せ】清水 E-mail:shimizu4310 at bridge.ocn.ne.jp
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┃03┃□広場
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□今年の山形ドキュメンタリー映画祭・アンケート発表
今年もインターナショナル・コンペやアジア千波万波で多くの作品が上映され、気
鋭の作家による「ニュー・ドックス・ジャパン」、特集「シマ/島」、さらに各種
のセミナーやシンポジウムなど、多彩な催しが行われた。そこで本誌では作品評の
みならず、企画や運営面について気付いたことなど、アンケートを実施した。その
結果、13名の方々から下記の回答をいただいた。いずれも明日のヤマガタを見据え
ての真摯な回答である。心より感謝したい。
■本田 孝義(映画監督)
3日間しか参加できなかった映画祭で私が感じていたのは「越境」という言葉だっ
た。今回の映画祭では国境を越えて製作されたドキュメンタリー映画が多数目にと
まった。見た作品で言えば『ユリ 愛するについて』の監督・東美恵子は国立ミュ
ンヘンテレビ映画大学に留学中で、撮影場所は日本の瀬戸内海。『ハルビン螺旋階
段』も監督・李丹は中国出身で日本に留学、本作はNHK製作で撮影場所は中国。
『田中さんはラジオ体操をしない』は監督・マリー・デロフスキーはオーストラリ
ア人で撮影地は日本。未見の作品では『ナオキ』『モンキーマンの街角』『日々の
呟き』も国境を越えた製作だ。ここで強引に作品のテーマに引き付ければ、『要
塞』はまさに生死をかけた越境の話であるし、『包囲:デモクラシーとネオリベラ
リズムの罠』は国境を飛び越えたグローバルマネーの話であり、グローバルマネー
が私たちの精神構造まで包囲する危険を描き出す。一方で今回の映画祭の成果を見
れば、国境を越えた製作体制が豊かな表現を生み出す可能性を感じる。最後に『グ
リーン・ロッキング・チェア』に触れておきたい。監督のロックス・リーは1992年
~93年にかけて日本に滞在していた。本作はフィリピンの古い文字、バイバインを
巡る話であるが、映画の中でバイバインがメタモルフォーゼするアニメを見て、ふ
と1993年にロックス・リーが製作した山形映画祭の先付け映像のことを思い出した。
この映像では「山」という漢字がメタモルフォーゼしていた。今作のどこかに、彼
が日本で出会ったひらがな・カタカナ・漢字への興味が反響しているように思う。
山形国際ドキュメンタリー映画祭がただ単に世界の映画を集めるから「国際」映画
祭ではなく、国境を越えたつながりを垣間見せるからこそ「国際」映画祭であるこ
とを示したのかもしれない。(敬称略)
追記:全体のプログラムとしては、土本典昭監督、佐藤真監督の特集がなかったこ
とが残念だった。特に後者では同氏著作「ドキュメンタリー映画の地平」にならっ
たプログラムがあれば過去の映画祭の成果を振り返る契機になったかもしれない。
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■藤井 仁子(映画評論家)
フラハティの偉大さをあらためて確認し、本多猪四郎畏るべしと肝に銘じた今年の
山形だったが、誰に訊いても同じような感想ばかり、こんなことでドキュメンタ
リーの明日は大丈夫なのだろうか? 結局、土本典昭さえ公式に追悼できない無知
と傲慢がこの体たらくを招いたのだと断じたくもなる。編集ソフトの最新機能で独
り自慰に耽るか、ダイレクトシネマを気どってたんなる編集放棄に堕するかに二分
されたような状況のなかで、撮ることの根源的な倫理と向きあいつづけた土本の思
考をたどりなおす意義はますます高まっているはずなのだが。
滞在中にもっとも愉しんだ一本は、実はギー・ドゥボールの『サドのための絶叫』
だった。白画面にさまざまなテクストの断片を朗読する声が響き、それが完全な無
音の黒味によって次第に長く中断される。ラディカルな表象批判であるはずのこの
試みは、しかし必死に退屈に耐えて見ていくうち、イメージの到来を待ち望む観客
のあいだに匿名的な連帯意識を生み、平面に光が投射されるという映画体験のもっ
とも原型的な姿に対する考古学的興奮さえ呼び覚ます。作り手のねらいを完全に裏
切るこの興奮こそ、映画が持つ出鱈目な可能性の証左というべきだろう。
◇────────────────────────◆◇◆
■春田 実(アジアライフ社)
今回はヤマガタ映画祭の転換点であるような印象をもった。これまで良くも悪くも
あった「ねちっこい熱さ」は消え、全体に静まっていて、この先、どうなっていく
のか、まだ見えていない、といった感じである。今後、何か新風が吹き込んでくる
のか、それとも、衰亡していくのか、それは不明である。
衰亡では、と危惧する一端には次のようなことがある。私は今回の映画祭の全作品
を見ているわけではないが、選考作品に偏(かたよ)りがあるように思った。偏り、
というのは、「権力(大組織)は悪」「弱者は正しい」「近代自由主義は悪」「伝
統文化は美しく正しい」といったテーマに沿った作品ばかりが選ばれていること。
そうした傾向は前からあったが、今回はそんな作品ばかりであるように思った。ど
うしてそうなったのかは知らないが(選者の感性なのか、運営上の決められた共通
認識なのか、世界的な傾向なのか、無意識なのか)、ちょっとマズイよなあと思っ
た。そうした選考は、ドキュメンタリーの幅を狭(せば)めるし、新しい観客の発
掘につながらない。小川紳介や土本典昭の作品の表面的な事柄だけが、選考の篩
(ふる)いとなっているのでは、とも思えた。
私が今回の映画祭で好きな作品は『肝っ玉おばちゃん』である。この監督の、ごち
ゃごちゃした理屈はどうでもいい、現場(現実)へ、という姿勢は素晴らしい。カ
メラは、現場へ、現場へと向かっていく。作品は、南アフリカの、虐待される少女
を助けるボランティア組織の日常を撮っている。そう文字で書くと「清く正しく」、
まったく面白みがないが、カメラは、現場へ、現場へと向かうため、優等生的なお
題目は粉砕され、生きている人間の生きた表情が、見る者にまともにぶつかってく
る。私は激しく感情をゆさぶられ、何度も落涙した。この作品は残念ながら映画祭
ではコンペ外の共同企画作品である。しかし、この作品が上映されたことで私は内
心、ほっとした。こうした作品が上映されていけばヤマガタに衰亡はないだろう。
そう思い、それを願った。
「山形国際ドキュメンタリー映画祭2009 ミーハー体験記」:
http://www.geocities.jp/haruasia/pvharu/pv0910yamag/yama001.htm
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■江利川 憲(フリー編集者)
10月9日の夜から14日の夕刻まで山形に滞在し、計28本の映画を見、セミナー・自
主講座・シンポジウムにも参加した。率直な印象を言えば、(1)世代交代、(2)どこ
か弾けていない感じ、ということになろうか。
(1)は、文字どおり若い人たちの参加が目立ったということで、彼・彼女らとは香
味庵などで話す機会もあったが、こちらが小川(紳介)・土本(典昭)と言っても、
「知らない」という返事だったりして、時代も人も替わったと強く意識させられた。
(2)については、巡り合わせということもあろう。最終日に発表された受賞作品の
うち、私が見ていたのは『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』(大賞)
と『ナオキ』(特別賞と市民賞)、『ユリ 愛するについて』(市民賞)だけだっ
たから。また、初期には裏方として参加し、主催者側のご苦労はよく分かっている
つもりなので、《弾けていない》などと書くのは心苦しいのだが、ここで社交辞令
を言っても無意味だし、あえて感じたままを書かせていただく次第。
そう感じた理由を考えてみると、町なかでポスターや看板をあまり見かけなかった
こと、これまでと比べて観客がやや少ないと思われたこと、多彩なプログラムの中
で「シマ/島―漂流する映画たち」「明日へ向かって」「やまがたと映画」などは
対象が広すぎて明確な狙いが分かりにくかったこと、「インターナショナル・コン
ペティション」では「これだ!」という突出した作品に出会えなかったこと、「デ
イリー・ニュース」が読み物としての面白味に欠けていたこと、などが挙げられる。
予算や人員の問題もあろうし、私の狭い体験の中での印象ということもある。上記
は、あくまで一つの見方であることを改めて強調しておきたい。
しかし、公式カタログに藤岡朝子さんが書いておられたように、20年、11回という
実績は重い。山形国際ドキュメンタリー映画祭は、あらゆるところに枝葉を伸ばし、
根を張り、すでに《映画の森》になっているという。その実績を踏まえ、生かし、
次回はぜひパッと弾けた映画祭を見せていただきたいと切に思う。
◇────────────────────────◆◇◆
■中村 大吾(編集者)
映画祭期間中に自主講座「山猫争議!土本典昭の海へ」
( http://wcnt2009.blogspot.com )を開催した。ふた月の準備で即興的に組織さ
れた「幻視の党」。予想以上の来聴者に恵まれた深夜の香味庵の片隅で、ビラに記
した檄文には反し、誰もツチモトを忘れてはいない、という当たり前のことを確認
させていただいた。多くの宿題も頂戴した。
語り尽くしていないし、見尽くしてもいない。だから「争議」は継続される。山猫
は眠らない。イン・ギルム・イムス・ノクテ! ところで、いち観客として計17作
(内コンペ5本)を鑑賞したかぎりでのベストは『アラン』 (R・フラハティ、
1934)という結果であった。それを言っちゃお終いよ、なのではなく、そこに立ち
戻りしたたか驚倒し狼狽えるべきだ、と本気で思う。後ろ向きなのではなく、前向
きに、あるいは正しくアナクロに。映画は転生する。いつだって新しい。土本もフ
ラハティも新しい。土本特集もフラハティ特集も何度でも実現していただきたい。
◇────────────────────────◆◇◆
■山下 治城(映像プロデューサー、株式会社リフト所属)
今年の山形は、清々しい天気に恵まれた。メイン会場はたくさんのヴォランティア
の方の働きでいつものようにスムーズな運営。山形市民賞の投票用紙もきちんと配
られていた。会場でもらった食事処のマップも手書きで味があり日本語と英語の両
方が用意されていた。デイリーの記事も興味深く、監督の考え方を深く知る手助け
となってくれた。
今年は、香味庵以外の、カフェやパブなどでも夜の集いが行われる場所が増えてい
て良かった。そのカフェなどで監督とのトークなどが行われていた。各会場に本日
以降のイベント情報などがモニターなどに掲示されるといいなと思った。メインの
AZには休憩スペースなどの自由にできるスペースがあり待ち時間もまったく退屈す
ることはなかった。日曜日のジャズのイベントや地元名産の模擬店なども相乗効果
で七日町を盛り上げてくれた。
映画監督協会の賞が新たに創設されたのは、さらに嬉しいことだった。無料で『C
UT!』という映画の上映が行われた。残念だったのは自分自身の見る時間が3日間
しか取れなかったこと。やはり、山形には延べ5日間いられるとこの映画祭を堪能
できる。「Rip!リミックス宣言」が受賞しなかったのが残念だった。
作品などの詳細(10/21の項) http://haruharuy.exblog.jp/12165443/
山形の食事(10/22の項) http://haruharuy.exblog.jp/12172017/
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■中村 倫章(大学生)
大阪より車で10時間かけ11日の昼過ぎに山形に到着。初めての映画祭参加に加え、
映画祭最終日の15日まで映画漬けの毎日が送れるかと思うと、山形での最初の一歩
はとても幻想的な世界への入口に足を踏み入れるような気分であった。11日から最
終日まで、鑑賞した映画は20本以上。映画祭では、鑑賞だけでなく 鑑賞後それぞ
れの映画の制作者とディスカッションできる場が設けられていることが何とも嬉し
い。この一連の流れは、観客一人一人の鑑賞態度への真剣さを高め、作品への理解
を深める起因となり、映画祭自体を高揚させているような印象を受けた。そして、
鑑賞した映画と共に忘れることができないのが映画祭スタッフの方々の仕事ぶり。
スケジュール通りの進行に、とても丁寧な対応。そんな映画祭成功への努力が、山
形での5日間、私を幻想的な気分そのままにさせてくれたんだろうと思います。ま
た2年後お会いできることをとても楽しみにしています。
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■渡辺 智史(映像作家)
映画祭のスタッフ皆さんの笑顔や元気な雰囲気が、印象的だったこと、常連のボラ
ンティアスタッフの方や、新たに参加した人々が映画祭を盛り上げている雰囲気が
良かった。たくさん作品を見たい私にとって大きく改善された点は、映画館・
フォーラムの整理券発行がなくなり、各会場をハシゴすることが容易になったこと
だった。今回も膨大な応募作品から選ばれてくる作品は、YIDFF独自のセレクショ
ンになっていて、多くの作品から刺激を受けた。一方でもっとビビットな作家の作
品群を観たいとも思った。2001年の映画祭に参加したペドロコスタや、アッピチャ
ッポンのような個性的な作家にもっともっと出会いたい。海外の映画祭に足繁く通
ってプログラミングされた作品の部門を、新たに設けたらおもしろいのではないか。
応募作品という枠を飛び越えて作品が競われれば、これまでのYIDFFのセレクショ
ンの傾向も、いい意味で変化していくのではないか。
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■加藤 孝信(撮影)
(1)『ここにいることの記憶』(川部良太監督/アジア千波万波)
架空の出来事を巡って、映画は存在と不在の間にかろうじて認められる薄皮を剥が
すように世界を見つめていく。全てを観たわけではないが、川部監督作品は一貫し
て「仮想/現実」「存在/不在」の問題を実験的手法で扱う傾向があるように見受
けられる。個々の作品の完成度は別として、こうした意欲的な試みは注目に値する
と思う。
ところで、知人から耳にした話だが、上映後のQ&Aで、このような実験的手法に対
して激しく抗議した観客がいたらしい。私の理解した限りでは、その主張は「ドキ
ュメンタリー映画で、子供の失踪事件というデリケートな問題をフェイクで作り上
げてまで扱うべきではない」ということらしい。ここには二つ考えるべきことがあ
ると思う。一つはいわゆる「ドキュメンタリー映画」で仮想の事象を扱う事の是非
だが、一律に「仮想だから拒否」というのでは、議論はおそらく「ドキュメンタ
リー映画」誕生当時にまで後退してしまうだろうし、件の観客の「仮想/現実」の
認識の仕方は21世紀のヤマガタに於いてはやや素朴に過ぎる。 もう一つは、観客
たちに少なからぬ動揺を与える題材を扱い、処理する方法の是非だが、これは劇映
画だろうが文章だろうが事情は同じであって、ことさら「ドキュメンタリー映画」
に於いてのみ問題されるべき事柄ではない。これは「創作」の場において、「仮想
/現実」の問題とも関連づけて検討される倫理的仮題であり続けるだろう。
(2)さよならミューズ
ぎりぎりまでさんざん葛藤したあげく参加し
なかった催し。作家たちの興味深かったであろうスピーチを聞けなかったり、実質
的に松江哲明監督の最新作である映像を見られなかったのは心残りだが、クラブで
踊り狂ったり、皆でラジオ体操をしたり、カラオケを歌ったりするのは、泥酔でも
していない限り生理的・体力的にそもそも無理だったと自分を納得させて諦めた。
しかしそれ以前に、なぜ既に閉館してしまった映画館をことさらに惜しみ悲しむ
のかが、私には最後まで理解できなかった。身も蓋もないことを言うようだが、
(必要十分な代替手段がある限り)場所や道具に対して、私はいささかもこだわる
気持ちを持ち合わせない。重要なのはあくまでも「作品そのもの」やそれを生み出
してくれる/くれた「作り手たち」であって、それらを置いてまで「場所/道具」
の消滅を残念がる気にはなれなかった。
(3)ANDプレゼンツ:撮影とドキュメンタリー「撮影のマスタークラス 2」
講師:大津幸四郎
講師である大津幸四氏が撮影された映画の抜粋が最初に上映されたのが、予定され
ていた講義の時間をあと5分残すのみ、という時点だったという事実を指摘してお
きたい(結局、講義時間は約35分延長された)。大津さんは非常に理知的で話術も
非常に巧みな方だから、ご自身の体験に立脚した現代日本ドキュメンタリー概論を
聴きたかった向きにはこれ以上幸福な時間はなかっただろうが、この企画はタイト
ル通り「撮影」の「マスター」クラスであるべきだったのであって、この日お話し
いただいたことは、参加者全てがある程度事前に知っておくべきだったことではな
かったか。
扱うテーマが「映画撮影」というこの上なく具体的な題材なのだから、最初から映
画の抜粋を上映するところから始めれば、その後の話題も受講者たちが見た映像に
即して始まったに違いなく、そうすれば熟練した匠の技をより一層深く理解できた
だろう。
思うに、主催者が利用できた時間や人材、金銭などのリソースが決定的に不足して
いて、十分に戦略や戦術が練られなかったのかもしれない。今回、ヤマガタでは参
加しきれないくらい数多くのレクチャーやシンポジウムが開かれていたが、もしか
すると、限られた資源を有効に使う手段を真摯に検討すべき時期に来ているのかも
しれない。
(4)日本映画監督協会賞
同賞審査委員長・恩地日出夫監督のコメントの一部。
「映画は時代を写す鏡というが、現代の日本からいい映画が出て来ないのは、緩い
社会が原因かもしれない」。非常に誠実かつ勇気ある言葉で、概ね同意したい。こ
の発言をされたご本人が近年映画を撮っておられない事実を考慮すると、「いい映
画」とはドキュメンタリー映画のみならず劇映画をも含むのかもしれず、事態の深
刻さを一層実感させられる。
一方、社会状況のせいで良い映画が産まれてこないという言い訳は、ドキュメンタ
リー映画においてはいわゆる「素材主義」「題材主義」にも陥りかねない面も持ち
合わせている。(例えば)中国には撮るべき事象が数限りなくあるから優れた映画
が出てくるのだ、といった引かれ者の小唄には、私たちはもう十分ウンザリさせら
れていたはずではなかったか。目の前のコップ一杯、ないしは椅子一脚からでも映
画を作ることができると、私たちは既に(とりわけ科学映画から)学んでいたはず
ではなかったか。
今回ヤマガタに参加した日本の作品が「いい映画」ではなかったとしても、そうし
た評価は創作して止まぬ映画作家たちにとって大した意味を持たないだろう。彼ら
は外部に擾乱されることなく、内なる衝動に突き動かされて奮起し続けるだろう。
そしてヤマガタは、自らが存在する限り、そうした作家たちを祝福し続けなければ
ならないだろう。
◇────────────────────────◆◇◆
■清水 浩之(ゆふいん文化・記録映画祭コーディネーター)
今年の山形ベストワンは本多猪四郎監督の『夜間中学』!夜間部と全日制の二人の
少年が教室の机を使って文通を始め、互いの境遇や悩みを知る物語にひたすら共感
!期末試験の最中に停電に遭っても、慌てずにロウソクを取り出す夜間部の生徒た
ちの逞しさに感動!そして答案を書き終えた順にロウソクの灯を「フッ」と吹き消
すかっこよさに涙ポロポロ(笑)
コピーライト=著作権を手厚く保護するなら「コピーレフト=引用権」も認めろ!、
という北米ならではの“明るい問題提起”映画『RiP!リミックス宣言』は、MXTV
の「未公開映画を観るTV」にピッタリ…と思ったけど、あの番組はレコード会社が
スポンサーだから無理かな?
日本の作品には「表現」面でもっと工夫があれば…と思った中で、架空の事件をモ
チーフに団地文化へのレクイエムを綴った『ここにいることの記憶』と山の入会権
闘争史『こつなぎ』が面白かったです。そして最優秀主演男優賞は『ナオキ』さん
に一票!
◇────────────────────────◆◇◆
■木村 穣(ライター/ピースムービーメント実行委員会)
今年も山形映画祭はラディカルだった。例えば、インターネット時代の未来を予見
する「自由な文化」(フリーカルチャー)運動を映画で表現し、文化の共有とリミ
ックスの自由を訴える作品があるかと思えば、トルコとグルジアとの国境地帯に住
む少数民族語、ラズ語の詩人に関する作品や、盲目の女性映像作家7人が制作した
オムニバス作品もある。日本でもようやく問題として意識されるようになった非正
規女性労働者の闘争を深い共感をもって記録した韓国の作品もある。書ききれない
が、他にも多数のクリティカルな作品を目にした。
ほとんど何の説明もなく素知らぬ顔で上映されているそういった映画作品は、重要
な問題提起に満ちているが、多くは映画祭の1作品として、短い20分の質疑応答だ
けでその内容を深めることなく上映は終わってしまう。これはこの映画祭の最大の
欠点であろう。
私には、山形映画祭は全力疾走で何かと競争しているように思われる。観客に妥協
することのないセレクションは、その競争対象がニヨンなのかアムステルダムなの
かはわからないが、限られた時間の中で、プログラミング及び上映スタッフ(字幕
作成・通訳・翻訳・映写・カタログ作成・会場・広報)が全力を尽くした結果では
あろう。
しかしながら、“アジア千波万波”の川部良太氏の作品など、どう考えても疑問を
感じるセレクトが複数あったのも例年のことである。
以下、今後へ向けての提言だが、作品だけでなく、運営についてももっとラディカ
ルにしてはどうか。
山形事務局、東京事務局とも、少人数が複数のプログラムや仕事を抱え、コアスタ
ッフは少々オーバーワーク気味と感じたのは私だけだろうか。有給のペイド・スタ
ッフに対し、“公募”されたボランティア・スタッフを「無給だが対等なスタッ
フ」(“アンペイド・スタッフ”)として位置づけ、大胆にプログラムの選定・運
営を任せるべきである。実際、ボランティア・ベースで運営されているデイリー・
ニュースの水準は高い。このレベルならば十分プログラムの選定もできる。
また、関係者には申し訳ないのだが、私は、山形映画祭において、一番予算と手間
がかかっているのに実りが少ない“インターナショナル・コンペティション”はい
らないと思う。なぜなら、すでに西欧や北米の映画祭等で評価されている作家・作
品を追認するばかりの結果となっている傾向が強いからである。映画祭においてコ
ンペはつきもののように思われているが、山形がマネをし続ける必要はもはやない。
アジアフォーカス・福岡映画祭のように観客賞しかない自治体映画祭もある。コン
ペを廃止して、“アジア千波万波”と“やまがたと映画”を主要プログラムとし、
予算の配分を見直し、現在東京事務局が中心となって選定・運営にあたっている
“アジア千波万波”プログラムの運営、そしてその果実を山形事務局に移管するこ
とが必要である。
米・欧州およびイスラエル作品については、“ニュー・ドックス・ヨーロッパ及び
北米”という部門を設け、注目作品のみ数本上映しておけばよい。現在行っている
ような時間をかけた選考の手間も省けるし経済的である。さらに、アフリカ及びラ
テンアメリカ、コーカサス、オセアニア・南太平洋諸島、先住民・原住民部門を常
設し、第三世界の中の歴史的当事者による作品を紹介することが重要である。
アジア世界におけるドキュメンタリーの制作環境が、技術革新とともに大きく変わ
っても、映画祭の予算や運営形態が今後どのように変わっていくにせよ、東アジア
の中のヤマガタという地理的位置は変わらない。未来を見据えた改革が必要だろう。
◇────────────────────────◆◇◆
■佐藤 寛朗(番組制作会社勤務)
事前の広報について。今回は山形でカタログを手にするまで「このプログラムのこ
こがウリ」というポイントが見えづらい感じがした。雑誌やWeb上の記事が絶対的
に少なかったし、目に触れた情報も、上映作品を羅列的に紹介しただけで、狙いや
工夫が伝わりにくかった。これは、市民映画祭として何とか定着させるべく、様々
な特集やイベントが組まれていた山形市内の空気とは対照的だった。予算や媒体が
限られると思うが、次回はコーディネーターと広報が一体となって、わざわざ山形
に足を運びたくなるような企画記事やプレゼンを戦略的に仕掛けられたら良いなと
思う。
作品について。日本とアジアを中心に約20本程観たが、個人的にはタイを中心とす
る東南アジアの映像に可能性を感じた。60年代の日本、ここ数年の中国で展開され
てきた、村落共同体的な伝統と、急激な近代化との相克が、ここにも芽生えてきた
ということか。タイの農村の状況を美しいカメラワークで撮りながら、実はそれが
映画の為に用意されたものであった、いう点で今後議論を呼びそうな『稲作ユート
ピア』(ウルポン・ラクササド監督)のような作品に出会えたことも収穫だった。
日本のドキュメンタリーについて。上映後の質疑応答で、「もっと社会的視点を持
て!」という批判が多々あったようだが、別の日のディスカッションで、海外のパ
ネラーがその事に対する疑問を投げかけていたのが印象的だった。パーソナル・ド
キュメンタリーを巡る一連の議論のなかで、あたかも「個人」に対置された概念と
して「社会」があるかのような感覚を植え付けられてしまっているが、そのような
発想から脱却した地点に新たなドキュメンタリーがある、という示唆がそこにはあ
った。作家も、見る側にもその事が問われたような気がした。
映画祭の将来について。いろいろな人に話を聞くと、あらためてこの映画祭が、関
係者の熱意で成り立っていることの凄さを実感させられる。しかし2011年も同じこ
とができるかどうかについては、何ら保証がない感じがした。とにかく次回も質の
高いプログラムを維持し、予算と人間を確保してほしい。スタッフは今回の成功に
甘んじずきちんと総括をして、心配な部分は「neoneo」などで、議論をオープンに
しても良いと思う。
◇────────────────────────◆◇◆
■森田 和幸(フリーライター兼映像祭作団体RECIPROプロデューサー)
山形市をぶらぶら歩いていると、他県から来た学生や外国人を除けば、主婦や定年
後の男性が多く見受けられた。
ある日の昼食時、「カフェフォーラム」で年配の女性二人と相席になった。私が食
べている「いも煮」を「私たちはいつでも食べれるわよ」と笑う彼女らは、例年来
ているという地元のファンだという。映画作りの学生たちとはまた違った感覚で、
映画祭の雰囲気自体をゆったりと楽しんでいるように見えた。こういう人たちいる
ことに安心を感じたが、同時にそれが「主婦たち」であることに少しだけ危機感を
覚えた。
1週間行われるこの映画祭は、どうしても平日が多くなる。盆休みでもなく長期連
休でもない、そんな日に昼から映画を見るには、やはり「仕事がない人」たちでな
ければならない。その部分をどうにかして、昼間は仕事をしている20歳後半から
40歳ぐらいまでの人でも楽しめる環境を作れないか。難しいだろうが、実現してほ
しいと感じた。
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